地域のコミュニティ存続の危さ

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◆地域コミュニティ存続の危さ
昨今、従前からの地域コミュニティ(町内会や地区会)が崩れ始めている。原因は地区民の高齢化と若者の意識の違いである。高齢化は全国的な傾向であるが年々、一人暮らしが増えていると言う。夫婦二人暮らしも高齢化により身体的な衰えや精神的な衰え等により、お互いに何れ相方が無くなる覚悟を持たなければならない時期が必ずやって来ると言う事が、一人残されてしまうと言う大きな不安が更に精神的に追い打ちをかけてしまい、地域コミュニティの小さな集合体である町内会もとかく欠席がちとなり、やがてそれが常態化してしまう。

◆地域コミュニティの尻すぼみ状態の要因
翻って、若者は、と言えば町内会費を払ってまで町内会に出席しようとする若者は年々減少しており、その理由は、昔ほどの魅力がなくなってしまったのである。単なる酒飲みだけに終わる様な町内会ほど魅力のない会合はないと若者は嘆く。しかし、何故、こんなに魅力が無くなってしまったのであろう?昔の町内会は酒も皆で大いに飲み語り合い、お互いに家と家、長男と長男、隣と隣の結びつきを強く大事にしてきた長い歴史の積み重ねがある。勿論、形的には町内会の中身そのものも昔と比較してもそんなに大きく変わっているとは思えないのであが、・・・しかし、何故であろうか?やはり、昨今、取り沙汰されている“人”に対する無関心さ、なのか、或いは、人は人に無関心さを装う、と言う事なのか。

◆起因は文科省の学校教育法にあるにか、或いはこの情報社会にあるのかは分からないけれど、それにしても、昨今、特に各地区地区での『契約』と言う一年毎の隣組長さんの『引継ぎ』なども、余り聞かれなくなってしまい、そんな事も起因してか、地域や地区の人や事が全くわからなくなってしまったのである。正に“われ関せず”的である。隣の息子さんや娘さんが今幾つで、学校は何処で、会社は何処で、既婚者なのか独身なのか?嫁さんは何処から来たのか、等々、何もかも全く分からなくなってしまいました。隣組の電話番号さえ個人情報だから、との理由で掲載しなくなってしまった。隣組くらいは個人情報云々から外しても良いのでは、と思ってしまう。兎に角、学校教育法での偏差値教育の影響で在ろうと勘ぐってしまう。偏差値教育は正に『点数至上主義的教育』とも言い換えられる、要約すれば「点数さえ良ければ今の学校教育法上は全てマル、つまり優等生」と言う事なのであり、つまり、少々意地悪くとも、無責任この上も無きであっても、又、少し人間性が悪くとも、人とのコミュニケーションの取り方が下手であっても、さらに正義感等が在ろうが無かろうが、兎に角、点数さえ100点に近ければ成績上は全てマルなのである。この様な教育の土壌に浸かった子供たちがSNSやChat等の情報に毒され続けた子供たちが大人になってきた時の地域コミュニティに対する考え方や向かい方などは、やはり従前の地域コミュニティとは少し違った関わり方になってしまう様に思うのである。やはり、この様に様々な情報が利用できる社会の在り方に関し、私自身、もろ手を挙げて賛同する事はできませんが、しかし、価値観さえ違ってしまった昨今の若者達との『地域コミュニティの取り方』について、真剣に向かい合って話し合う必要があるのではないでしょうか。兎に角、今、何とかしなければ、これまでの『日本のいい意味での村社会』が終わってしまうのでは、と危惧している。そんな、このもどかしさを一体誰にぶっつければ良いのだろうか!社会全体に問題があるとするのか、或いは格差社会を引き起こす経済環境に問題があるとするのか。それとも今の教育方法に問題があるとするのか。はたまた、昨今の日本人の信仰心の無さに問題があるとするのか。兎に角、嫌な時代になってきたと言う思いがひしひしと強くなってくるのである。

今朝、聞いた都市計画家の池田利通さん曰く『高齢者コミュニティと言う“円”と子育て世代コミュニティと言う“円”が大きく二つ有り、その二つの円を包む大きな円が地域のコミュニティである』と言うが、しかし少し疑問がある。それを言うのであれば、高齢者コミュニティの円、子育て世代コミュニティの円、働き盛り世代のコミュニティの円、コミュニティ予備軍である義務教育課程の子供たちの円、の4つの円がお互いに重なり合い、その重なり合った部分が地域のコミュニティなのでは、と私は強く思うのである。

◆地域コミュニティの世代を超えた共通言語や考え方、向い方などを模索する
それにしても非常に困った問題であるけれども、私が考えるその要因の一つとして、やはり教育の問題があります。ですが、この問題を問題として取り上げるにはかなり多くの時間を割かなければなりません、しかし、だからと言って、今、この問題に真剣に取り組まなければ、昭和30年代半ば位まで続いてきたこの『日本的社会コミュニティ』は滅びてしまうと言う位の『悲壮感』をもって取り組まなければならない大きな問題であり大きな課題かと言える。その兆候として今から40年くらい前の昭和の時代の終わり頃からか、特に小中学校では子供達に対し極力表立った『競争』と言う順位付けをさせない様な以降jしていったようであるが、しかし、その事が本当に子供たちにとって正しい教育方法だったのだろうか、難しいジャッジであるが、しかし、あと十年もすればその結果の優劣はわかってくると思う。兎に角、『そんな事があったの?』と言う年代層も沢山居るかも知れなませんが本当にあった事なのです。運動会などではどの子が1等なのか分からない様に、走りの早い子は早い子同士でグループを作り、遅い子は遅い子同士でグループを作る、その中で走らせる、と言うのである。中間や期末試験の結果なども学年で100番位までは廊下にその名前を貼り出したものであります。兎に角、学校から一歩、外に出てしまうと、役所以外、好むと好まざると全てが競争世界であり弱肉競争の世界で在るのです。誰がこの様な事を考えたのか分かりませんが、少なくとも学校の先生方の考え方でない事と思いたいし、勿論、役所内に於いても多分に、それなりの競争力学は働いているのかも知れません。




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