庭屋一如、庭も部屋の内なれば
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昨今の新しい建売住宅メーカーによるニュータウンなどを見ていると、駐車スペースはどの家々にも確保されているが、しかし、反面、庭のない家が余りにも多い事に気づく。そして、どんなに小さな庭でも良いのに、何故だろうと考えてしまう。勿論、庭にも大小様々、和風あり洋風あり、折衷あり、と様々であるが、しかし庭のある家はやはり少ないと思うのです。普通に「庭を作ろう」と考えれば「手作りの庭」でも良いはずなのに………、もし予算的な問題で在ればスペースだけでも確保しておけば、いつでも好きな時期に庭作りが始められる、と思うと残念である。翻って、その昔、山形城主最上義光公が明和8年頃から、城下町緑化奨励の為に毎年恒例の山形市国分寺薬師堂例大祭に合わせ、5月8日から3日間、大阪、川崎と並ぶ全国3大植木市の一つとしての植木市が立ちます。その機会に是非、
歴史あるこの植木市で毎年好きな花や苗木を少しずつ買い求め育てて行けば、山形市街地の緑化も、もっと進み、より美しい山形市内の街並みが展開していくのでしょうが、庭を作らない人たちの心情は、余り良く理解出来ません。既に明和の時代には城下町緑化奨励の目的で立派な市が立ち、そして現代の今まで、ずっと繋がってきたと言うのに残念でなりません。今では年々縮小されていく植木市の現状を見ると私は、お金が問題で庭を作らないのではなく、世代間の価値観の違い等が底流にあるのでは、と思うのです。
私自身、住まいを考える中で常に意識し心掛けている事は
『庭屋一如』と言う考え方で在ります。この『庭屋一如』と言う言葉自体は、建築家でも在り日本の茶室・数寄屋建築研究家の中村昌生先生(1927年~2018年)が提唱した造語ですが、意味は
『庭と建物は一つの如し』つまり、ウチはソト、ソトはウチになると言う考え方であります。
古くから日本の住まいには庭園や坪庭があり
「自然と人は分かち難くつながっている」という日本人の心情があらわれています。庭を設えるだけでな無く、日本の住まいは昔から下屋、縁側、濡れ縁、通り庭、土庇と言ったウチ(屋内)なのかソト(屋外)なのかが曖昧な空間が沢山あります。私たち日本人はこの様に建物と庭との境界を隔てず、ウチとソトが混ざり合う曖昧な空間に日本的な良さや魅力を感じてきたのです。例え小さなウチでも広がりと開放感が得られ、ソトの四季の移ろいを肌で感じられる様な暮らし・・・その様な事を考えながら私たちは、ウチはソトの様に、ソトはウチの様に設計する事を心がけてきたのです。
翻って、冒頭に戻りますが、家の間取りを考える上で、家の中だけで考えるのではなく
敷地全体を俯瞰しながら庭も一つの部屋と見做して考えて行く事が重要であると考えております。兎に角、敷地の外から俯瞰しながら計画していかないと近視眼的なプランになってしまい、後々、様々な問題の起因となってしまう可能性が大なり小なりあるからであります。俯瞰して考えて行けば敷地を取り巻く周辺の様々な家々の状況や日照、風の道、雪の降り方なども把握でき、後々、将来的に起こり得る様々な問題なども未然に防ぐ事が出来、例えば、隣家からプライバシー上の問題等で苦情などを受ける確率が非常に少なくなります。 つまり、この考え方の根本は
LANDSCAPE DESIGN ARCHITECTURE の考え方に繋がっているのです。 以上
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