私の考える≪住まい≫について

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私自身、《住宅》と言う言葉自体、余り無機質的で好きでない。
本来ならば、やはり《住宅》は《住い》と言うべきであろうかと思う。
《住い》と《住う》は、対言葉であり切り離すことは出来ないと考えている。
もし、この対言葉を切り離したならば《住い》は単なる箱でしかなくなってしまう、と考えている。
少なくとも、私の考える《住い》とは、その様な単なる物理的な箱などではなく、そこに住われる家族の、時間軸を縦糸に、有形無形なる生活史、或いは生活観、等を横糸に、その家族が様々な形で共有しながら織りなす、生活の“器”、であろう、言い換えれば、家族の様々な暮らしぶりを支える為の“器”として具現化された空間であると考えている。

他方、建売メーカーの唱える《住宅》とは、キャッチコピーやモデルルーム、或は3Dとウオークスルーなどを巧みに使いながら、あたかも、それがメーカー側からのユーザー側への「未来に向けた生活の提案」としてプレゼンテーションし更に、住宅は外観やインテリアも含め個性的なファッションであるべき!と鼓舞し、ユーザーの心を鷲掴みにしてしまいます。
何よりもユーザー側はメーカー側の視覚的な巧みさ等によりもっと必要な事、或は重要なハード面等をなおざりにして受入け入れてしまうのである。

ここで、私は、敢えて建売メーカーの戦略等に対して『住宅は決してファッション等ではない!』と言う苦言を呈したいのである。

翻って、どの様に立派なモデルルームやキャッチコピーを持ったとしても、所詮、それらは営利を追求する勝ち抜く為の戦略であって住宅産業に於ける営業上、或は商売上のツールでしかないのである。つまり、彼らの言う住宅とは、単なる箱でしかなく、その箱に様々な飾り付けを施して、より見栄えのする様に仕上げただけなのであり、残念ながらそこに存在するのは人間の豊かな生活や営みを補完するものなどではなく、省エネの為の冷ややかな空調設備や無用な照明器具が沢山あるだけです。
空調設備も照明設備も果たして、本当に人間の為の設備なのでしょうか?
ひょっとしたら人間の生理を棚上げしている様にも思うのです。疑問ですね。
勿論、ユーザー側にも大きな問題があると思います。
最大の問題点とは、ユーザー側の実生活に対する基本的な考え方や基準、節度、ひっくるめて哲学と言えばいかにも大袈裟ではあるが、そう言う哲学を持っているユーザーが余りにも少ない、と言う事かと思っております。
だから、安易に建売メーカー等の提案に惑わされてしまうのかもしれません。
つまり《住い》はファッションなどではないのである。にもかかわらず殆どの方々が、メーカー側の用意するモデルハウスや3Dウオークスルーなどの視覚的な演出、プレゼンテーションに惑わされ、必要でない様々な付加価値等によって、最も必要な《住い》に於ける “本質”を見失ってしまう事であります。

彼らの提案する付加価値の殆どは、無ければ困る様なものではなくメーカー側の商売道具としての付加価値である事が余りにも多い。
例えば、台所に必要なのは豪華なシステムキッチン等でなく合理的に、しかも楽しく快適に調理ができる様な設備であり、且つ建築的な空間であり、その空間が家族団らんの為の食卓へと繋がれば本当に楽しい空間になるのです。
又、台所の配置(場所)も、家族で一番早起きの奥様が真っ先に入る場所であり、それだけに寒い冬季期間を考慮すれば北側を避け朝日の昇る東側に面する辺りが最も適していると思っております。

それでは、《住いの設計》とは、どの様な行為を言うのでしょうか?
設計行為、と言っても様々あろうかと思いますが、少なくともハウジングメーカーの言う設計とは、間取り中心に考える事が設計の全ての様な気がします。勿論、その事自体は間違った考え方ではありませんが、設計とはそればかりではないのです。地域の歴史や風土、方位、日照、風の強さと通り、雪の状況、等の全体的な視点での検討が必要であります。又、敷地周囲を見渡し、俯瞰して近隣の状況を把握しながらの検討も必要であります。
建売メーカー等は総じて優秀な建築家を抱えておりませんので、最初からメーカー側は、設計上の品質にバラツキが無き様に《間取り図》や《立面図》などの様々なタイプを用意しており、後は、ユーザーの好みに合わせ予算とリンクしながらセレクトしていく、と言う、それが彼らの言う設計と言う行為の様であります。勿論、建売メーカーの中には優秀な設計士もおられ真摯に設計しているメーカーもあろうかと思っておりますが、総じて、住宅産業の一環として利益追求型の商売と捉えているメーカーの方が多いのではないでしょうか。

ここで、私自身の設計行為や考え方を云々する事に対しては別の機会に改めますけれど、敢えて、私が考える《良い住まい》とは、いかなるものを言うのか、と言う観点で、二つ、ご紹介をさせて頂きます。

一つ目は、本来その土地が持っている履歴としての地勢や風土・歴史、環境などが《住まい》を考える上で最も!重要なキーワードになると考えております。つまり、住まいに於ける計画そのものが、その土地を考える上で、充分に反映されているかどうか、が、とても重要な点であろう、と思うのです。

私は、与えられたその土地がユーザーの為に、どの様な住まいづくりを要求しているのか!と言う事をその土地から一生懸命聞く事にしております。聞き洩らしたり間違ったりしたら大変、その土地に馴染まない建築をつくる事になってしまうからであります。動物でも植物でも地球上のあらゆる生き物は、その土地や環境に適合しなければ死に絶えてしまいます。
故に“土地を考える”と言う行為は最も重要な計画の“骨子”であろうと私自身考えております。
家庭、と言う言葉は“家”と言う文字と“庭”と言う文字で成り立っている含蓄のある言葉であります。

土地利用計画、つまり建物の“配置計画”は、上記の骨子を踏まえ、まずは【日照を捉える】:春、夏、秋、冬の季節ごとの位置や高度の把握、【エコロジカル的洞察】:風の流れ(特に北風の通り道を考える)、雪の降り方、冬場の雪の始末、敷地東側や南側を広く残す検討、【住環境の予測】:敷地を取り巻く住環境の変化や動向の読み取り (将来的な見地で、東側隣地、南側隣地に2階建ての高い建物等が建設される事を想定し、支障のない様に考えておく事が重要)、【プライバシーの確保】:敷地周囲にどの様な民家がどの様に建てられているかを調査、ユーザーのプライバシーの保護を検討、以上、これらの様々な検討項目を、いかにユーザーの《住まい》に取り込む事が出来きるか、であろうと考えます。

二つ目は、住み手側の【生活観】:生活に対する考え方を如何に引き出し、それらを如何に《住い》に取り込み具現化していくか、であり、これらが、《住い》に於けるアイディンテティであり、且つ《住い》の個性化と言えると思います。

これに対し建売ーカー側は、コスト的な量産方式が基本であり、故に画一化が原則であります。ここがハウジングメーカーの視点と専業設計者との視点の大きく違う所であります。
故に、建売メーカーの言う《外装》が所謂《個性》であると言う認識と設計者としての私の認識とは大きな隔たりがあります。
つまり、《外装》が《住い》の個性化との捉え方には異論はないのですが、考え方として、屋根の形や色、外壁の材料等を他と同じ様にしない、と言う事だけが個性化では無く、その形や色などが最終形に至るまでの様々な過程が、何らかの意味を要するべきであり、それが無ければ単なる物理的な、或いは無機質的な形だけをさすことになります。

《住い》は非常に高価な買い物であります。
洋服や車などと違って、選定に失敗した、とか飽きてしまった、等の理由で簡単に買い変えられるものではありません。
《住い》づくりに失敗した、と思っている人達の殆どは、そう思った時点から後悔が始まって行くのです。

前にも言いました様に【建築計画】での最も重要な考え方は、建売メーカーの様に最初に《間取り》ありき、でなく、その前に、《土地の持っている様々な情報》などに基づいた《サイトプランニング=土地利用計画=住まいの敷地に対する配置計画》等を充分に行う事であります。

《良い住まい》をつくる為の条件として、以上二つの考え方を基本に様々な角度から検討し尽くし、その結果として敷地や建物自体がどの様な形を望んでいるのかを探り出し、それらの行為を繰り返し、反復しながら、最も望ましい形にすべく徐々に絞り込んでいく、と言う検討が非常に重要であり、建売メーカーの様に設計自体が1週間や十日で出来る等と言う事は、真摯に設計作業を行っている者にとっては全くあり得ない設計工期であります。

どの様な素晴しい《間取り》でも《土地利用計画=配置計画》が間違ってしまえば《良い住まい》にはなりません。
《間取り》が気に入らない場合、内装工事として直すことが出来ても《建物の配置》に関しては、建物を曳枚でもしなければ無理な事で在ります。

この《土地利用計画=配置計画》が悪く、建物の配置が失敗したと悔やんでおられる住み手は沢山いるものと推測しております。例えば、隣とのプライバシーの問題、雪の問題、日当りの問題、風の通り道の問題、様々あります。
だから、この《土地利用計画=配置計画》は間取りの良し悪し等を云云する以前の、非常に基本的な、且つ最も重要な問題であり住宅設計の良し悪しはここで決まる、と言っても過言ではないと考えております。

最後に、あえて《良い住まい》の三つ目を上げるとすれば《間取り》そのものは私的な部分であり、間取りが悪いからと言っても他人に迷惑のかかる問題ではありません。むしろ、それよりも“建物外観”自体が、個人と社会の接点であり、それだけに景観上からも非常に重要な検討事項であるべきです。

“建物外観”こそ、例え私的建物であっても【社会性や公共性】を持たざるを得ないと、考えております。つまり、醜い外観は町並みを悪くし美しい外観は町並みを美しくすると言う事であります。
“建物外観”は以上の様に良くも悪くも、その様な強い力をもって居るのです。

以上、とりとめも無く私の《住い》に対する考え方やスタンスを書かせて頂きました。それでなくとも全国的に地方の都市は一様にフォーマットされた無機質な、暮らす人々の生活・暮らし向きが全く見えない様な街並みが余りにも普通になり下がっている事への警鐘もかねて、終わりに、山形の街並み景観が、かつての里山風景を思い起こさせる様に良くなる事を心からお祈りして筆を置かせてもらいます。


追伸/付加価値とは“コロンブスの卵”の様なもの。

追伸/陰翳礼讃(いんえいらいさん):谷崎潤一郎
   日本人の美意識とは、明るさよりも陰りを、光よりも闇との調和を重視してきた。
   ※陰翳礼讃:昭和8年12月号と昭和9年1月号の『経済往来』に掲載された、谷崎潤一郎の随筆。建築から食べ物まであらゆるものに対しての陰翳の考察がなされ、独特の切り口で日本の伝統美についてつづられている。



参考サイト:
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